「旅に出るなんて
思いもしなかった
見送ってばかりいた私だから」
気がつけばもう決められた出発時間を過ぎていて、
彼はまるで寝坊した朝のようにあわてて飛び出した。
(まだ時間はたっぷりあったはずだのに)
はやる気持ちに合わせ軽やかに駆けたつもりでも、
足はもつれ、ホームに着く頃にはすっかり息も切れていた。
それでも、うたの詰まった鞄をひとつだけ携えて、
彼は下り線へと乗り換える。
切符を見ないのは、行き先がどこかとうに知っているからだろう。
(たくさんの人たちをここで見送ってきたから)
がらんとした列車の座席から、過ぎてきた景色に別れを告げる。
黄昏せまる車窓に映るのは、誰だろう。
(ふるさとの人たちのように、どこか懐かしい気がする)
少しくたびれたように見える横顔が
自分自身だと気づくのは、列車が動き出してからのことである。
「旅に出るなんて
思いもしなかった
車窓には新しい私が映っているの」
(2012.2.6)
note:LP「見知らぬ人でなく」1982.7.21発売
歌謡界という異国を彷徨した久保田早紀のサウダーデ。シルクロードから中近東、ポルトガル、上海、カリフォルニアへと巡った時間旅行は、東京へと戻ります。しかし、それは帰郷ではなく、また新たな旅支度を始めるためだった…。そんな5枚目のオリジナルアルバムは、寺尾聰を大成功させた井上鑑の手によって、シティーポップスの雰囲気を漂わせています。名画のタイトルを冠してはいますが、他にモチーフを求めた創作というものではななく、逆に自らが置かれている環境や内面と向き合い最も心情を吐露している感じ。そういう意味では、いわゆるシンガー・ソングライターとしてのカラーが珍しく色濃く出ているといえるでしょう。
ただ、やっぱり持て余し気味なのは相変わらずで、居所の定まらぬ孤高の異邦人はその後、エジプト、インドネシアを回りつつ、インナートリップを極めていきます。
その旅立ちといえるこの曲から感じるのは、始まりと終わり、出会いと別れ、じっくり時間をかけて反芻してもなお余りある、たくさんの日々やいくつもの出来事…。早紀さんのうたは人生という旅を進める中で変わりゆく景色の描写であり、その中には自然の摂理や真理がさまざまな形で説かれているような気がします。
◎いまCDで聴くなら… 見知らぬ人でなく